自己紹介

今回の記事をとにかく後に残せるような資料にしたい。

2014年9月29日月曜日

「済州島で連行」証言 裏付け得られず虚偽と判断 2014年8月5日

「済州島で連行」証言 裏付け得られず虚偽と判断
http://www.asahi.com/articles/ASG7L71S2G7LUTIL05N.html


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「済州島で連行」証言 裏付け得られず虚偽と判断
                       2014年8月5日
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 〈疑問〉日本の植民地だった朝鮮で戦争中、慰安婦にするため女性を暴力を使って無理やり連れ出したと著書や集会で証言した男性がいました。朝日新聞は80年代から90年代初めに記事で男性を取り上げましたが、証言は虚偽という指摘があります。




 男性は吉田清治氏。著書などでは日雇い労働者らを統制する組織である山口県労務報国会下関支部で動員部長をしていたと語っていた。

 朝日新聞は吉田氏について確認できただけで16回、記事にした。初掲載は82年9月2日の大阪本社版朝刊社会面。大阪市内での講演内容として「済州島で200人の若い朝鮮人女性を『狩り出した』」と報じた。執筆した大阪社会部の記者(66)は「講演での話の内容は具体的かつ詳細で全く疑わなかった」と話す。

 90年代初め、他の新聞社も集会などで証言する吉田氏を記事で取り上げていた。

 92年4月30日、産経新聞は朝刊で、秦郁彦氏による済州島での調査結果を元に証言に疑問を投げかける記事を掲載。週刊誌も「『創作』の疑い」と報じ始めた。

 東京社会部の記者(53)は産経新聞の記事の掲載直後、デスクの指示で吉田氏に会い、裏付けのための関係者の紹介やデータ提供を要請したが拒まれたという。

 97年3月31日の特集記事のための取材の際、吉田氏は東京社会部記者(57)との面会を拒否。虚偽ではないかという報道があることを電話で問うと「体験をそのまま書いた」と答えた。済州島でも取材し裏付けは得られなかったが、吉田氏の証言が虚偽だという確証がなかったため、「真偽は確認できない」と表記した。その後、朝日新聞は吉田氏を取り上げていない。

 しかし、自民党の安倍晋三総裁が2012年11月の日本記者クラブ主催の党首討論会で「朝日新聞の誤報による吉田清治という詐欺師のような男がつくった本がまるで事実かのように日本中に伝わって問題が大きくなった」と発言。一部の新聞や雑誌が朝日新聞批判を繰り返している。

 今年4~5月、済州島内で70代後半~90代の計約40人に話を聞いたが、強制連行したという吉田氏の記述を裏付ける証言は得られなかった。

 干し魚の製造工場から数十人の女性を連れ去ったとされる北西部の町。魚を扱う工場は村で一つしかなく、経営に携わった地元男性(故人)の息子は「作っていたのは缶詰のみ。父から女性従業員が連れ去られたという話は聞いたことがない」と語った。「かやぶき」と記された工場の屋根は、韓国の当時の水産事業を研究する立命館大の河原典史教授(歴史地理学)が入手した当時の様子を記録した映像資料によると、トタンぶきとかわらぶきだった。

 93年6月に、吉田氏の著書をもとに済州島を調べたという韓国挺身隊研究所元研究員の姜貞淑(カンジョンスク)さんは「数カ所でそれぞれ数人の老人から話を聞いたが、記述にあるような証言は出なかった」と語った。

 吉田氏は著書で、43年5月に西部軍の動員命令で済州島に行き、その命令書の中身を記したものが妻(故人)の日記に残っていると書いていた。しかし、今回、吉田氏の長男(64)に取材したところ、妻は日記をつけていなかったことがわかった。吉田氏は00年7月に死去したという。

 吉田氏は93年5月、吉見義明・中央大教授らと面会した際、「(強制連行した)日時や場所を変えた場合もある」と説明した上、動員命令書を写した日記の提示も拒んだといい、吉見氏は「証言としては使えないと確認するしかなかった」と指摘している=注①。

 戦時中の朝鮮半島の動員に詳しい外村大・東京大准教授は、吉田氏が所属していたという労務報国会は厚生省と内務省の指示で作られた組織だとし、「指揮系統からして軍が動員命令を出すことも、職員が直接朝鮮に出向くことも考えづらい」と話す。

 吉田氏はまた、強制連行したとする43年5月当時、済州島は「陸軍部隊本部」が「軍政を敷いていた」と説明していた。この点について、永井和・京都大教授(日本近現代史)は旧陸軍の資料から、済州島に陸軍の大部隊が集結するのは45年4月以降だと指摘。「記述内容は事実とは考えられない」と話した。


■読者のみなさまへ
 吉田氏が済州島で慰安婦を強制連行したとする証言は虚偽だと判断し、記事を取り消します。当時、虚偽の証言を見抜けませんでした。済州島を再取材しましたが、証言を裏付ける話は得られませんでした。研究者への取材でも証言の核心部分についての矛盾がいくつも明らかになりました。

     ◇

 注① 吉見義明・川田文子編「『従軍慰安婦』をめぐる30のウソと真実」(大月書店、1997年)

2014年9月26日金曜日

木剣をふるい無理やり動員 ― 加害者として 吉田清治(77歳) 1991年11月25日 発行女たちの太平洋戦争<2> 敵は日本人だった より


1991年11月25日 発行
女たちの太平洋戦争<2> 敵は日本人だった

130ページより

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木剣をふるい無理やり動員 ― 加害者として
            <千葉県我孫子市>吉田清治(77歳)
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 私が今日、最も恥ずべきこと、心を痛めている問題の一つは、従軍慰安婦を九百五十人連行したことです。従軍慰安婦という制度は、日本がアジア各地、太平洋諸島へ侵略したとき、その駐留陸・海軍軍人たちの性的な相手をさせるための女性であったのです。占領直後の前線に、売春組織を陸・海軍の指揮のもと、直接の援助のもとに設置したというのは世界史上でないそうです。もちろん、あってはなりません。

 これが太平洋戦争における日本陸・海軍の最も大きな罪だと私は信じております。この婦女子の韓国・朝鮮人の徴用のやり方は、私たち実行者が十人か十五人、山口県から朝鮮半島に出張し、その道の警察部を中心にして総督府の警察官五十人か百人を動員します。そして警察官の護送トラックを五台から十台準備して、計画通りに村を包囲し、突然、若い女性を全部道路に追い出し、包囲します。そして従軍慰安婦として使えそうな若い女性を強制的に、というか事実は、皆、木剣を持っていましたから殴る蹴るの暴力によってトラックに詰め込み、村中がパニックになっている中を、一つの村から三人、五人、あるいは十人と連行していきます。そして直ちに主要都市の警察署の留置所に入れておいて、三日か五日の間に、予定の百人、あるいは二百人の人数をそろえて、朝鮮の鉄道で釜山まで運び、釜山から関釜連絡船で下関へ運んだのです。

 下関では七四部隊といって陸軍の部隊がありましたが、そこの営庭で前線から受け取りにきている軍属に渡します。そしてご用船で中国、あるいは南方へ送るという業務を三年間やっておりました。

 十万とも二十万ともいわれる従軍慰安婦は、敗戦後、解放されてから郷里に一人もお帰りになってないのです。連合軍は中国、その他の占領地でこの女性たちを解放し、朝鮮半島、あるいは日本へ送還したのですが、その女性たちすべては郷里に帰らず、各地で名前を変えて生活され、今日に至っております。

 今日、朝鮮半島、あるいは日本列島の中ですごしていらっしゃる方、十万人のうち、もう半数は犠牲になってお亡くなりかと想像されますが、まだ数万の元従軍慰安婦の方が生きていらっしゃいます。従軍慰安婦と原爆被災者の二つが、私にとっての大きな問題です。共に私が強制連行して、その罪を犯したのです。

 したがって私は戦犯の証人として、ここに立って皆さまにそのことを伝え、心に留めていただきたいとお願いする次第でございます。

(以上は、「アジアの声 侵略戦争への告発」=戦争犠牲者を心に刻む会編 東方出版=から)


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時系列の情報だけを書きます。
この本(朝日新聞社発行)が発行されたのが 1991年11月25日です。

この内容は
アジア戦争犠牲者を追悼 1986年7月9日
http://asahishinbunkiji.blogspot.jp/2014/09/198679.html
ここでの大阪の集会で語った内容です。

このあと
【窓】従軍慰安婦 1992年1月23日(夕刊)
http://asahishinbunkiji.blogspot.jp/2014/08/1992123.html

【窓】歴史のために 1992年3月3日(夕刊)
http://asahishinbunkiji.blogspot.jp/2014/08/199233.html


こう続きます。






(作成中)植村隆(さん)の記事は誤報か?捏造か?問題ないのか?

(作成中)
さて、問題となる植村隆の記事、これの分析をおこないます。


元の記事はこちら
http://asahikiji.webcrow.jp/warehouse/1991081226.htm
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慰安婦の痛み、切々と韓国で聞き取り

【ソウル10日=植村隆】

 日中戦争や第二次大戦の際、戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」のうち、一人がソウル市内で生存していることがわかり、「韓国挺身隊問題対策協議会」(尹貞玉・共同代表、十六団体約三十万人)が聞き取り作業を始めた。同協議会は十日、女性の話を録音したテープを朝日新聞記者に提供した。体験をひた隠しにしてきた彼女らの重い口が、やっと開き始めた。

 尹代表らによると、この女性は六十八歳で、ソウル市内に一人で住んでいる。

 女性の話によると、中国東北部で生まれ、十七歳の時、二、三百人の部隊がいる中国南部の慰安所に連れて行かれた。慰安所は民家を使っていた。五人の朝鮮人女性がおり、一人に一室が与えられた。女性は「春子」(仮名)と日本名を付けられ、毎日三、四人の相手をさせられた、という。

 「監禁されて、逃げ出したいという思いしかなかった。相手が来ないように思い続けた」という。数か月後に逃げることができ、戦後ソウルに落ち着いた。結婚したが夫も子供も亡くなり、現在は生活保護を受けて、暮らしている。
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これは東京版なので慰安婦と挺身隊の誤用はされていませんが、大阪版では
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日中戦争や第2次大戦の際、女子挺身隊 の名で戦場に連行され 、
日本軍人相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」のうち、
 1人がソウル市内に生存していることがわかり、
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http://asahishinbunkiji.blogspot.jp/2014/09/1991812.html

と書かれています。

このことについて朝日新聞ではどう説明しているでしょうか?
http://asahishinbunkiji.blogspot.jp/2014/09/201485.html
http://asahishinbunkiji.blogspot.jp/2014/09/201485_25.html

(ここから先は作成中です)

2014年9月25日木曜日

「元慰安婦 初の証言」 記事に事実のねじ曲げない 2014年8月5日

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「元慰安婦 初の証言」 記事に事実のねじ曲げない

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http://www.asahi.com/articles/ASG7L6VT5G7LUTIL05M.html

 〈疑問〉元朝日新聞記者の植村隆氏は、元慰安婦の証言を韓国メディアよりも早く報じました。これに対し、元慰安婦の裁判を支援する韓国人の義母との関係を利用して記事を作り、都合の悪い事実を意図的に隠したのではないかとの指摘があります。

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 問題とされる一つは、91年8月11日の朝日新聞大阪本社版の社会面トップに出た「思い出すと今も涙 元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」という記事だ。

 元慰安婦の一人が、初めて自身の体験を「韓国挺身(ていしん)隊問題対策協議会」(挺対協)に証言し、それを録音したテープを10日に聞いたとして報じた。植村氏は当時、大阪社会部記者で、韓国に出張。元慰安婦の証言を匿名を条件に取材し、韓国メディアよりも先んじて伝えた。

 批判する側の主な論点は、①元慰安婦の裁判支援をした団体の幹部である義母から便宜を図ってもらった②元慰安婦がキーセン(妓生)学校に通っていたことを隠し、人身売買であるのに強制連行されたように書いたという点だ。

 植村氏によると、8月の記事が掲載される約半年前、「太平洋戦争犠牲者遺族会」(遺族会)の幹部梁順任(ヤンスニム)氏の娘と結婚した。元慰安婦を支援するために女性研究者らが中心となってつくったのが挺対協。一方、遺族会は戦時中に徴兵、徴用などをされた被害者や遺族らで作る団体で挺対協とは異なる別の組織だ。

 取材の経緯について、植村氏は「挺対協から元慰安婦の証言のことを聞いた、当時のソウル支局長からの連絡で韓国に向かった。義母からの情報提供はなかった」と話す。元慰安婦はその後、裁判の原告となるため梁氏が幹部を務める遺族会のメンバーとなったが、植村氏は「戦後補償問題の取材を続けており、元慰安婦の取材もその一つ。義母らを利する目的で報道をしたことはない」と説明する。

 8月11日に記事が掲載された翌日、植村氏は帰国した。14日に北海道新聞のソウル特派員が元慰安婦の単独会見に成功し、金学順(キムハクスン)さんだと特報。韓国主要紙も15日の紙面で大きく報じた。

 植村氏は前年の夏、元慰安婦の証言を得るため韓国を取材したが、話を聞けずに帰国した経緯もあり、詳しい取材のいきさつは、朝鮮半島問題を扱う月刊誌「MILE(ミレ)」(91年11月号)に書いた。この時期、植村氏の記事への批判はまだ出ていなかった。

 また、8月11日の記事で「『女子挺身隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』」などと記したことをめぐり、キーセンとして人身売買されたことを意図的に記事では触れず、挺身隊として国家によって強制連行されたかのように書いた――との批判がある。

 慰安婦と挺身隊との混同については、前項でも触れたように、韓国でも当時慰安婦と挺身隊の混同がみられ、植村氏も誤用した。

 元慰安婦の金さんが「14歳(数え)からキーセン学校に3年間通った」と明らかにしたのは、91年8月14日に北海道新聞や韓国メディアの取材に応じた際だった。キーセン学校は宴席での芸事を学ぶ施設だ。韓国での研究によると、学校を出て資格を得たキーセンと遊郭で働く遊女とは区別されていた。中には生活に困るなどして売春行為をしたキーセンもおり、日本では戦後、韓国での買春ツアーが「キーセン観光」と呼ばれて批判されたこともあった。

 91年8月の記事でキーセンに触れなかった理由について、植村氏は「証言テープ中で金さんがキーセン学校について語るのを聞いていない」と話し、「そのことは知らなかった。意図的に触れなかったわけではない」と説明する。その後の各紙の報道などで把握したという。

 金さんは同年12月6日、日本政府を相手に提訴し、訴状の中でキーセン学校に通ったと記している。植村氏は、提訴後の91年12月25日朝刊5面(大阪本社版)の記事で、金さんが慰安婦となった経緯やその後の苦労などを詳しく伝えたが、「キーセン」のくだりには触れなかった。

 植村氏は「キーセンだから慰安婦にされても仕方ないというわけではないと考えた」と説明。「そもそも金さんはだまされて慰安婦にされたと語っていた」といい、8月の記事でもそのことを書いた。

 金さんらが日本政府を相手に提訴した91年12月6日、別の記者が書いた記事が夕刊1面に掲載されたが、キーセンについては書いていない。その後も植村氏以外の記者が金さんを取り上げたが、キーセンの記述は出てこない。

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■読者のみなさまへ

 植村氏の記事には、意図的な事実のねじ曲げなどはありません。91年8月の記事の取材のきっかけは、当時のソウル支局長からの情報提供でした。義母との縁戚関係を利用して特別な情報を得たことはありませんでした。

「挺身隊」との混同 当時は研究が乏しく同一視 2014年8月5日

なぜいまさら、この内容なのか、
ここに少し考えなければならないと思える内容があったからです。

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「挺身隊」との混同 当時は研究が乏しく同一視

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http://www.asahi.com/articles/ASG7M01HKG7LUTIL067.html

 〈疑問〉朝鮮半島出身の慰安婦について朝日新聞が1990年代初めに書いた記事の一部に、「女子挺身(ていしん)隊」の名で戦場に動員された、という表現がありました。今では慰安婦と女子挺身隊が別だということは明らかですが、なぜ間違ったのですか。

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 「女子挺身隊」とは戦時下の日本内地や旧植民地の朝鮮・台湾で、女性を労働力として動員するために組織された「女子勤労挺身隊」を指す。44年8月の「女子挺身勤労令」で国家総動員法に基づく制度となったが、それまでも学校や地域で組織されていた。朝鮮では終戦までに、国民学校や高等女学校の生徒ら多くて約4千人が内地の軍需工場などに動員されたとされる=注①。目的は労働力の利用であり、将兵の性の相手をさせられた慰安婦とは別だ。

 だが、慰安婦問題がクローズアップされた91年当時、朝日新聞は朝鮮半島出身の慰安婦について「第2次大戦の直前から『女子挺身隊』などの名で前線に動員され、慰安所で日本軍人相手に売春させられた」(91年12月10日朝刊)、「太平洋戦争に入ると、主として朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した。その人数は8万とも20万ともいわれる」(92年1月11日朝刊)と書くなど両者を混同した。

 原因は研究の乏しさにあった。当時、慰安婦を研究する専門家はほとんどなく、歴史の掘り起こしが十分でなかった。朝日新聞は、国内の工場で働いた日本人の元挺身隊員を記事で取り上げたことはあったが、朝鮮半島の挺身隊の研究は進んでいなかった。

 記者が参考文献の一つとした「朝鮮を知る事典」(平凡社、86年初版)は、慰安婦について「43年からは〈女子挺身隊〉の名の下に、約20万の朝鮮人女性が労務動員され、そのうち若くて未婚の5万~7万人が慰安婦にされた」と説明した。執筆者で朝鮮近代史研究者の宮田節子さんは「慰安婦の研究者は見あたらず、既刊の文献を引用するほかなかった」と振り返る。

 宮田さんが引用した千田夏光氏の著書「従軍慰安婦」は「“挺身隊”という名のもとに彼女らは集められたのである(中略)総計二十万人(韓国側の推計)が集められたうち“慰安婦”にされたのは“五万人ないし七万人”とされている」と記述していた。

 朝鮮で「挺身隊」という語を「慰安婦」の意味で使う事例は、46年の新聞記事にもみられる。44年7月に閣議決定された朝鮮総督府官制改正の説明資料には、未婚の女性が徴用で慰安婦にされるという「荒唐無稽なる流言」が拡散しているとの記述がある。

 挺身隊員が組織的に慰安婦とされた事例は確認されていないが、日本の統治権力への不信から両者を同一視し、恐れる風潮が戦時期から広がっていたとの見方がある=注②。元慰安婦の支援団体が「韓国挺身隊問題対策協議会」を名乗っており、混同が残っているとの指摘もある。

 92年1月の宮沢首相の訪韓直前、韓国の通信社が国民学校に通う12歳の朝鮮人少女が挺身隊に動員されたことを示す学籍簿が見つかったとする記事を配信。「日本は小学生までを慰安婦にした」と誤解され、対日感情が悪化した。

 朝日新聞は93年以降、両者を混同しないよう努めてきた。当時のソウル支局長(72)は「挺身隊として日本の軍需工場で働いた女性たちが『日本軍の性的慰みものになった』と誤解の目で見られて苦しんでいる実態が、市民団体の聞き取りで明らかになったという事情もあった」と話す。


■読者のみなさまへ

 女子挺身隊は、戦時下で女性を軍需工場などに動員した「女子勤労挺身隊」を指し、慰安婦とはまったく別です。当時は、慰安婦問題に関する研究が進んでおらず、記者が参考にした資料などにも慰安婦と挺身隊の混同がみられたことから、誤用しました。

     ◇

 注① 高崎宗司「『半島女子勤労挺身隊』について」デジタル記念館「慰安婦問題とアジア女性基金」

 注② 藤永壮「戦時期朝鮮における『慰安婦』動員の『流言』『造言』をめぐって」松田利彦ほか編「地域社会から見る帝国日本と植民地 朝鮮・台湾・満洲」(思文閣出版、2013)

2014年9月24日水曜日

「恨」の半世紀 決意の訴え 1991年12月6日

慰安婦が日本政府を訴えた日の朝日新聞23面です。
今回、書き出した理由は、ここに金学順さんの生い立ちが書いてあったからです。

ほかの記述と比較してみましょう。

これは半年前の朝日新聞(の植村隆)の記事です。
http://asahishinbunkiji.blogspot.jp/2014/09/1991812.html

これは1993年に発行された本からです。
http://asahishinbunkiji.blogspot.jp/2014/09/blog-post_17.html

※ とりあえずひどいのは1993年(この記事の2年後)の本のほうがよっぽど脚色されていることです。

また、植村隆の記事では

「女子挺身隊 の名で戦場に連行され (大阪版)」

と書かれていた内容が、わずか4か月後の同じ朝日新聞で

「平壌で、地区の世話役に「金になる仕事がある」と誘われ」

といきなり変わっているのは注目です。これでも誤報ではないのでしょうか?



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1991年(平成3年)12月6日 (夕刊) 23面

「恨」の半世紀 決意の訴え

 「どれだけたくさんの慰安婦が犠牲になったか。私の十七歳の青春を返して欲しい」。従軍慰安婦だった金学順(キム・ハクスン)さん(六七)はハンカチで涙をぬぐった。六日、日本政府を相手に提訴した韓国の「太平洋戦争犠牲者遺族会」。忘れられた慰安婦、戦傷のいえぬ元軍属や何の補償もない元兵士。戦士通知さえこない太平洋戦争開戦から五十年、「セイセン(聖戦)」に巻き込まれ置き去りにされた原告たちの「恨」(ハン)はいまなお積み重なっている。

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元慰安婦提訴 

地裁入口で全員が黙とう

 原告団は午前十時、整然と並んで東京地裁へ。男性はほぼ全員が黒のネクタイ。女性は白いチマ・チョゴリ姿。地裁入口で黙とうした。涙を浮かべる原告もいる。
 提訴した後、地裁内で記者会見。原告の一人でもある「太平洋戦争犠牲者遺族会」の金鍾大(キム・チョンデ)会長は「自国民のみを手厚く援護してきた日本の身勝手さは、国際的見地から到底認められない」との声明文を示し、「われわれにとっては戦争は終わっていない」と声をはりあげた。

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「逃げたら死ぬぞ」そして、翌朝から

金学順さん「胸痛い、でも話す」

 金さんは六日朝、東京・西早稲田の宿舎で「畳を見てつらかった。植民地時代を思い出した」とやつれた表情で、ぽつりと語った。白いチマ・チョゴリ姿。「まだ韓国にはたくさんの慰安婦たちが黙ったままです。夫や子供がいる人はこんな体験を話せるわけはない」。「でも私は話します。胸が痛いけれど・・・・・・」と話を続けた。

 金さんは一九三九年春ごろ、平壌で、地区の世話役に「金になる仕事がある」と誘われ、平壌駅から日本の軍人たちと一緒に軍用列車に乗せられた。数えで十七歳だったという。着いたのは中国北部の集落で、「テッペキチン」という記憶がある。将校に「いうことを聞け、逃げたら死ぬぞ」と脅され、翌朝から軍人の相手をさせられた。

 金さんも含めて朝鮮人女性は五人。三百人ほどの部隊が近くにいたという。
 一ケ月半後、部隊と移動。金さんは胸を病み、監視が緩くなった。物売りの朝鮮人業者に「自分も朝鮮人だ。逃がしてほしい」と頼み、夜中に脱出した。

 二人は夫婦になり、戦後、上海からソウルへ戻った。しかし夫は酒を飲むと「お前は慰安所にいたじゃないか」と金さんを責めた。

 二人の子供は事故や病気で亡くなった。夫も朝鮮戦争に巻き込まれて死んだ。
 「子供が死んで、自分も死のうと思ったが死に切れなかった。だれにも過去を話せず、苦しんできた。私の不幸は慰安所から始まっている」と金さん。今は生活保護を受けながらソウルの貸間に住んでいる。

 昨年、日本政府が国会で「従軍慰安婦は民間業者がやったこと」と答弁したと聞いて、怒りがこみあげた。「なぜ、日本政府は責任を認めないのか」。今年夏、キリスト教の女性団体「韓国挺身(ていしん)隊問題対策協議会」を訪れ、体験を語った。

 金さんは「身も心もボロボロになった。お金をいくらもらっても仕方がない。日本人のために、数多くの朝鮮人女性が犠牲になったことを若い人たちに伝えたい」という。

 金さんは「身寄りもいないので、名前が出ても構わない」と本名を名乗った。残りの二人は、名前を公表していない。家族に話すことができないからだ。

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来日した原告12人の訴え
(金学順さんを除く、敬称略)
趙鍾萬(69) 軍属としてトラック島で建設作業。船が沈没して負傷
鄭琪永(71) 強制的に学徒入隊。内務班で、ほぼ毎日暴行をうけた
朴炳贊(68) 捕虜監視員。日本軍戦犯として5年服役。片目を失明
徐正福(71) 沖縄軍夫。班長から毎日殴られた。未払い給与1650円
李永桓(79) 軍属。船が爆撃を受け片腕を切断、衝撃で声にも障害
申成雨(71) 同上。佐世保などで土工労務。給料の大半は強制貯金
金鍾大(54) 父がパラオで戦死したが知らされず。母が行商で苦労
李種鎮(47) 父がマニラで戦死。貧しさの余り17歳の時に自殺未遂
韓文洙(49) 父のブラウン島玉砕が今夏判明した。遺骨捜索もない
金容琪(60) 兄はブラウン島で殴殺された情報も。今年死亡を確認
韓永龍(48) 父は終戦直後、浮島丸沈没で死亡。今年、証言で確認
呉壬順(69) 日本の花形ボクサーだった兄がビスマルク諸島で戦死

(作成中)声 を分析する。

朝日新聞が(読者の)声でこの問題を取り上げだしたのは、8月30日からです。
慰安婦特集を行ったのが8月5、6日ですが、
その後、他新聞社(毎日新聞だったと記憶しています)から紙面で指摘されるまで、
実に半月の間、掲載しませんでした。
(9月18日の朝刊で投書が実は千通を超えていたことが明らかになりました。)
ここでは、9月20日間での間に掲載された投書(全28通)を分析します。

投書は
8月30日 3通
http://asahishinbunkiji.blogspot.jp/2014/09/2014830.html
9月 6日 3通
http://asahishinbunkiji.blogspot.jp/2014/09/201496.html
9月13日 5通
http://asahishinbunkiji.blogspot.jp/2014/09/2014913_21.html
9月14日 5通
http://asahishinbunkiji.blogspot.jp/2014/09/2014914_23.html
9月15日 1通
http://asahishinbunkiji.blogspot.jp/2014/09/2014915.html
9月18日 8通
http://asahishinbunkiji.blogspot.jp/2014/09/voice-2014918.html
9月20日 3通 
http://asahishinbunkiji.blogspot.jp/2014/09/2014920.html
でした。

まずは、今回の捏造がどう表現されているか確認します
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8月30日 誤り・誤報 誤った 混同・誤り 混同
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9月 6日 問題・このような事態 問題 訂正問題・大変なこと 公明正大でなかった
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9月13日 虚偽 失態・過ち・誤り・虚偽・誤報 誤り
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9月14日 (作成中)
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9月15日   誤報
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9月18日 誤報 不祥事・誤報・誤報・-・大失敗・不祥事 偽装・誤報・誤報
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9月20日 不祥事 構造的な問題・誤報 対応が後手に回った・
      誤った報道 思い込みや記事のチェック不足などが重なった

「ねつ造」表現は9月13日のしかもサンゴ事件の引用で1回しか用いられていません。

   「落書き、ねつ造でした 深くおわびします」。1989年の朝日新聞1面の見出しだ。朝日新聞の記者が自らサ ンゴを傷つけ、捏造(ねつぞう)報道した。四半世紀前のこの一件を私は授業で知ったが、特ダネ欲しさという背景、チェックが不十分であったという点、社の方針が定まらず謝罪が遅きに失した点など、今回の吉田調書の記事撤回との共通点が多い。

ここだけです



また、9月以降は慰安婦だけではなく、
吉田調書、
池上彰さんコラム掲載拒否が混じっていますので、

慰安婦関連の内容は最初は「慰安婦問題」と問題点が明確だったのですが、
やがて3つの問題が混在し、
最終的に『一連の不祥事』や、『誤報』、『問題』など

抽象的な表現になってしまっていることがよくわかります。



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