自己紹介

今回の記事をとにかく後に残せるような資料にしたい。

2014年8月29日金曜日

【ひと】吉田清治さん 1983年11月10日

1983年(昭和58年)11月10日
朝日新聞 3面

ひと

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朝鮮人を強制連行した謝罪碑を韓国に建てる
吉田清治さん

福岡県生まれ、法政大卒。昭和17年から敗戦まで山口県労務報国会動員部長。五年前、団体職員を退いた。著書に「私の戦争犯罪」(三一書房刊)など。70歳。
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 全国から励ましの手紙や電話が相次いでいる。同じ戦争加害の意識に悩んでいた人、「強制連
行、初めて知りました」という中学三年生・・・・・。
 「でもね、美談なんかではないんです。二人の息子が成人し、自分も社会の一線を退いた。もうそんなにダメージはないだろう、みたいなものを見定めて公表に踏み切ったんです」
 大学卒業後、旧満州国吏員から中華航空に転じた。身元チェックの甘さから、朝鮮人の社会主
義者を飛行機に乗せる結果になったことなどが利敵行為に問われる。軍法会議で懲役二年。出獄
後、下関の親類宅に身を寄せると、特高警察から「罪のつぐないに、労務報国会で働け」と迫られた。
 下関は関釜連絡船の玄関口。正規の徴用はもちろん、「実家に仕送りができる」とブローカーにだまされた若者たちが次々に送り込まれてくる。しかし、内務省からは「人員払底の時局から、取り締まるな」の密命。貨車で炭鉱や土木現場へ送り込んだ。
 炭鉱では、逃亡を図った首謀者が木刀でなぶり殺される現場に出くわした。
 教科書問題で文部省は「当時は朝鮮半島は日本であり、国民徴用令に沿ったもの」と弁明。この春には旧朝鮮総督府の幹部らが当時のダム建設の記録をまとめた。大会社の重役などに収まる
この人たちは「日本は朝鮮の近代化に貢献した」と、吉田さんを前に胸を張った、という。
 「国家による人狩り、としかいいようのない徴用が、わずか三十数年で、歴史のヤミに葬られようとしている。戦争責任を明確にしない民族は、再び同じ過ちを繰り返すのではないでしょうか」
                (清田 治史記者)

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こうやって、両方の文章を書いてみると以外に興味深い。
この上の文章の約10年後の文章が、前回書いた
【窓】従軍慰安婦 1992年1月23日(夕刊)
http://asahishinbunkiji.blogspot.jp/2014/08/1992123.html
です。
読み比べると興味深いことに
1983年の文章はどちらかといえば男性の強制連行を中心に書かれており
1992年の文章は明らかに女性を中心の文章になっている。


あと、今回(1983年)の文章は。吉田氏の「私は悪くない、国に言われて仕方なく」感をひしひしと感じる。

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