自己紹介

今回の記事をとにかく後に残せるような資料にしたい。

2014年8月31日日曜日

【窓】従軍慰安婦 1992年1月23日(夕刊)

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1992年(平成4年)1月23日

窓 論説委員室から
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従軍慰安婦

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 吉田清治さんは、昭和十七年、朝鮮人を徴用するために設けられた「山口県労務報国会」の動
員部長になった。

 以後三年間、強制連行した朝鮮人の男女約六千人にのぼるという。

 韓国の報道機関から「もし、わが国の国会で証言してほしいという要請があれば、どうしますか」と聞かれたとき、こう答えた。

 「私は最も罪深いことをしました。証言しろといわれれば、韓国の国民、国会に対して謝罪し、そして何でも答える義務がある。その立場を自覚していますから」

 記憶のなかで、特に心が痛むのは従軍慰安婦の強制連行だ。

 吉田さんと部下、十か十五人が朝鮮半島に出張する。総督府の五十人、あるいは百人の警官と
いっしょになって村を包囲し、女性を道路に追い出す。木剣を振るって若い女性を殴り、けり、トラックに詰め込む。

 一つの村から三人、十人と連行して警察の留置所に入れておき、予定の百人、二百人になれば
下関に運ぶ。女性たちは陸軍の営庭で軍属の手に渡り、前線へ送られていった。吉田さんらが連
行した女性は、少なくみても九百五十人はいた。

 「国家権力が警察を使い、植民地の女性を絶対に逃げられない状態で誘拐し、戦場に運び、一
年、二年と監禁し、集団強姦(ごうかん)し、そして日本軍が退却する時には戦場に放置した。
私が強制連行した朝鮮人のうち男性の半分、女性の全部が死んだと思います」

 吉田さんは七十八歳である。
「遺言として記録を残しておきたい」と、六十歳を過ぎてから、体験を書き、話してきた。

 東京に住んでいたころは時折、旧軍人の団体や右翼が自宅に押しかけてきて、大声を出したり
した。近所の人が驚いて一一〇番したこともある。

 マスコミに吉田さんの名前が出れば迷惑がかかるのではないか。それが心配になってたずねる
と、吉田さんは腹がすわっているのだろう、明るい声で「いえいえ、もうかまいません」といった。

                                    <畠>


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これに続く記事(吉田清治氏の紹介)が
「窓 歴史のために」になります
http://asahishinbunkiji.blogspot.jp/2014/08/199233.html

2 件のコメント:

  1. 応援してます、がんばってください!

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  2. ありがとうございます。地道にまとめて行きます。

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