自己紹介

今回の記事をとにかく後に残せるような資料にしたい。

2014年9月26日金曜日

木剣をふるい無理やり動員 ― 加害者として 吉田清治(77歳) 1991年11月25日 発行女たちの太平洋戦争<2> 敵は日本人だった より


1991年11月25日 発行
女たちの太平洋戦争<2> 敵は日本人だった

130ページより

▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼
木剣をふるい無理やり動員 ― 加害者として
            <千葉県我孫子市>吉田清治(77歳)
▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲

 私が今日、最も恥ずべきこと、心を痛めている問題の一つは、従軍慰安婦を九百五十人連行したことです。従軍慰安婦という制度は、日本がアジア各地、太平洋諸島へ侵略したとき、その駐留陸・海軍軍人たちの性的な相手をさせるための女性であったのです。占領直後の前線に、売春組織を陸・海軍の指揮のもと、直接の援助のもとに設置したというのは世界史上でないそうです。もちろん、あってはなりません。

 これが太平洋戦争における日本陸・海軍の最も大きな罪だと私は信じております。この婦女子の韓国・朝鮮人の徴用のやり方は、私たち実行者が十人か十五人、山口県から朝鮮半島に出張し、その道の警察部を中心にして総督府の警察官五十人か百人を動員します。そして警察官の護送トラックを五台から十台準備して、計画通りに村を包囲し、突然、若い女性を全部道路に追い出し、包囲します。そして従軍慰安婦として使えそうな若い女性を強制的に、というか事実は、皆、木剣を持っていましたから殴る蹴るの暴力によってトラックに詰め込み、村中がパニックになっている中を、一つの村から三人、五人、あるいは十人と連行していきます。そして直ちに主要都市の警察署の留置所に入れておいて、三日か五日の間に、予定の百人、あるいは二百人の人数をそろえて、朝鮮の鉄道で釜山まで運び、釜山から関釜連絡船で下関へ運んだのです。

 下関では七四部隊といって陸軍の部隊がありましたが、そこの営庭で前線から受け取りにきている軍属に渡します。そしてご用船で中国、あるいは南方へ送るという業務を三年間やっておりました。

 十万とも二十万ともいわれる従軍慰安婦は、敗戦後、解放されてから郷里に一人もお帰りになってないのです。連合軍は中国、その他の占領地でこの女性たちを解放し、朝鮮半島、あるいは日本へ送還したのですが、その女性たちすべては郷里に帰らず、各地で名前を変えて生活され、今日に至っております。

 今日、朝鮮半島、あるいは日本列島の中ですごしていらっしゃる方、十万人のうち、もう半数は犠牲になってお亡くなりかと想像されますが、まだ数万の元従軍慰安婦の方が生きていらっしゃいます。従軍慰安婦と原爆被災者の二つが、私にとっての大きな問題です。共に私が強制連行して、その罪を犯したのです。

 したがって私は戦犯の証人として、ここに立って皆さまにそのことを伝え、心に留めていただきたいとお願いする次第でございます。

(以上は、「アジアの声 侵略戦争への告発」=戦争犠牲者を心に刻む会編 東方出版=から)


--------------------------------

時系列の情報だけを書きます。
この本(朝日新聞社発行)が発行されたのが 1991年11月25日です。

この内容は
アジア戦争犠牲者を追悼 1986年7月9日
http://asahishinbunkiji.blogspot.jp/2014/09/198679.html
ここでの大阪の集会で語った内容です。

このあと
【窓】従軍慰安婦 1992年1月23日(夕刊)
http://asahishinbunkiji.blogspot.jp/2014/08/1992123.html

【窓】歴史のために 1992年3月3日(夕刊)
http://asahishinbunkiji.blogspot.jp/2014/08/199233.html


こう続きます。






0 件のコメント:

コメントを投稿