自己紹介

今回の記事をとにかく後に残せるような資料にしたい。

2014年9月18日木曜日

金学順さんの証言を比較する。

ちょうど、金学順さんの証言をまとめていたところに、
よもやレイパーネットのほうから、金学順が何よりの証拠です。と言い出したものだから
何ともびっくりです。さて、ちょうどよい機会なので、このまままとめてみましょう。

元の文章を通して読みたい方は
http://asahishinbunkiji.blogspot.jp/2014/09/blog-post_17.html
を参照してください。

冒頭に(1993)と書いてある文章は
1993年発行 岩波ジュニア新書 「従軍慰安婦」にされた少女たち より
(2013)と書いてある文章は
2013年発行 岩波ジュニア新書 日本軍「慰安婦」にされた少女たち より引用です。

あと、内容をあわせるために、2013年の文章は多少段落を変更しています。

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(1993)⑤ 学順さんが生まれたのは中国東北部吉林省。独立運動にかかわっていたお父さんが、一九一九年の三・一独立運動に参加して日本官憲に追われ、朝鮮にいられなくなったためである。そこでも独立運動をする人たちの仕事を手伝っていたお父さんだったが、学順さんが生まれて一〇〇日もたたないうちに、日本人に銃で撃たれて亡くなってしまう。
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(2013)⑤ 学順さんは一九二四年、中国東北部吉林(チーリン)省で生まれる。母は一五歳で父と結婚、やがて日本人たちにまじって中国へ移住したが、学順さんが生まれて間もなく父が死んだため、母は平壌(平壌)の実家にもどり、何とか学順さんを育てていった。

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※ 1993年ではいきなりお父さんは抗日運動家です。そのせいで朝鮮にいれなくなったと書いていますが、2013年では『日本人にまじって中国に移動』に変更になりました。

※ また、父親の死因も1993年当初は日本人に殺されたことになっていました。

※ 母親の実家は平壌(ピョンヤン)のようです。

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(1993)⑥ 乳のみ児をだいたお母さんは故郷へもどり、身内の人びとをたよって学順さんをなんとか育てていった。教会にかようお母さんについてよく教会に行ったけれど、教会をきらう日本の朝鮮総督府は、教会関係者をたくさん殺したりした。「でも母とくらしたあのころが、とても幸せで楽しかった」と学順さんは言われた。

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(2013)⑥ 学費無料の教会に四年ほど通ったのが、一番よい思い出。やがて母は再婚、学順さんは妓生(キーセン)を養成する家の養女となり、学校を卒業。
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※ 1993年のときは母子で教会に通う信心深い親子、その教会を弾圧(殺しています)する日本の図式です。

※ 2013年では母親は再婚し、「妓生(キーセン)を養成する家の養女となり、学校を卒業」と変更されました。義父に疎まれた、母親の再婚の障害だったと考えるのはうがった見方でしょうか?

※ この書き方だと普通の学校に通っているように書かれていますが、実際は「母親からキーセンに売られた」ことになります。なお、この後登場する養父はキーセンの親方で、彼女の母親と再婚した義父ではないようです。

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(1993)⑦ 十七歳のとき、日本の警官が部落の人と一緒にきて、「挺身隊に行けばお金がもうかるし、天皇陛下の命令だから行かなくてはいけない」といい、むりやり日本軍のトラックにのせられる。おなじ部落ののすこし年上の友人も連行されていて、どこへいくかわからないまま、トラックは走ってやがて平壌(ピョンヤン)に着いた。そこから軍人といっしょに記者にのせられ、三、四日のったり降りたり、またトラックで運ばれて、着いてところは弾丸が飛んでくる危険な戦場にほど近い、まっ暗な中国人の家だった。

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(2013)一七歳のとき、仕事をもとめて、すこし年上の友人と一緒に養父に連れられて、中国・北京へ行った。養父と食事をしているとき、日本軍人に呼び止められ、「金もうけのためになぜ中国に来たのか、スパイじゃないのか?」と養父は連れていかれ、学順さんたちは別の軍人に連行され、軍人が四、五十人乗っている無蓋(むがい)のトラックに両側からさっとかつぎあげられて乗せられた。おそろしくなって、友人とトラックの中で身をちぢめて泣いていた。後ろには同じようなトラックがもう一台ついてきていた。ときたま銃声がすると、みんな降りてトラックの下にもぐり、うつぶせになった。やがてあたりが真っ暗ななか、トラックから降ろされ、中国人が逃げて空き家になった家に連行される。
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※ 17歳の話になります。1993年では村にいた時に「挺身隊」として「村の友人と一緒に」連行された、2014年では北京で(キーセンの)友人と軍人に連行されたことになっています。

※ また、2013年の文章は「日本軍人の養父(キーセンの経営者)に対する発言を抜きに考えると北京に(売春婦を)買い付けに着ていた日本軍に「養父が友人と共に売った」と見るのが自然な文章です。

※また、この文章の後半、何気に「まっ暗な中国人の家だった。」→「中国人が逃げて空き家になった家に連行される。」と変更されています。
真偽は不明ですが、中国人がこの後の行為を黙認したと解釈されないよう、文を変更したと思われます。

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(1993)⑧ そしてその家で、軍服を着た日本人将校に学順さんは犯された。
 「抵抗するとけられて、別の部屋につれていかれました。布切れで仕切りをしただけの部屋でした。何もないその部屋で『服を脱げ』といわれました・・・・・・」

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(2013)⑧ その家で、軍服を着た将校(しょうこう)に学順さんは二回も犯された。
「抵抗するとけられて、別の部屋につれていかれました。布切れで仕切りをしただけの部屋でした。何もないその部屋で『服を脱げ』といわれました・・・・・・」
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 ※「日本軍将校」→「軍服を来た将校」の表現に変更されています。彼らはどこの国の人だったのでしょう?

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(1993)⑫ 夜がすっかり明けると、他の部屋に三人の朝鮮の娘たちがいるとわかった。二二歳の「シズエ」さん、一九歳の「サダコ」「ミヤコ」さん。そこで獣のようにすごした。ごはんをくれれば食べる。服をくれれば着る。外に出るときは軍服を着、部屋では下着だけ、反抗すればたたかれる。「軍人が戦闘からもどってくると、一〇人でも二〇人でも受け入れるしかなかったので、その苦痛は言葉では表現できません」

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(2013)⑫ 夜がすっかり明けると、他の部屋に三人の朝鮮の娘たちがいるとわかった。二二歳の「シズエ」さん、一九歳の「サダコ」「ミヤコ」さん。そこで獣のように扱われてすごした。ごはんをくれれば食べる。服をくれれば着る。外に出るときは軍服を着、部屋では下着だけ、反抗すればたたかれる。「軍人が戦闘からもどってくると、一〇人でも二〇人でも受け入れるしかなかったので、その苦痛は言葉では表現できません」

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※ ここは微妙な表現の変更です。「そこで獣のようにすごした。」→「そこで獣のように扱われてすごした。」獣のように扱われても、人間の心持は忘れていないといいたいのでしょうか?

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(1993)⑬ 四カ月たったころ、たまたまある朝鮮兵に出会って、二人でいっしょに軍から脱け出し、中国各地を転々と逃亡しながら子どもを産み、上海(シャンハイ)で解放をむかえる。

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(2013)⑬ 四カ月たったころ、たまたま部隊と来たある朝鮮人商人に出会って、彼の手引きで逃げだし、中国各地を転々と逃亡しながら子どもを産み、上海(シャンハイ)で解放をむかえる。

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※ 「朝鮮兵」→「部隊と来たある朝鮮人商人」と変更されました。慰安所を朝鮮兵が利用していると都合が悪いと考えたのでしょう。

※ 「二人でいっしょに軍から脱け出し、」→「彼の手引きで逃げだし」手に手をとっての逃避行から、手引きに変更されています。一人で逃げ出したということなのでしょう。

※ その後結婚したと書いてあるので、(かわいそうに思った)朝鮮人商人に買われたと解釈もできます。こうなると逃亡ではありません。

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これだけの疑問がわいてきます。


なお、本文の対比はホームページ載せました。
http://asahikiji.webcrow.jp/warehouse/index.html

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